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ポープとゾンビとキャノンボール

今日から日記を書くことにした。

これまで“書きたい、書こう”と思っては、ノートや手帳を買ってみたり、ジャーナルアプリをインストールしてみたり。でも、思うは易く行うは難し。なかなか続かず三日坊主を繰り返していた。

うれしいことや楽しいこと、悲しいことや腹の立つこと。毎日さまざまなことを感じ考えながら過ごしている。それなのに、日常生活の慌ただしさにかまけて、自分の想いや考えを深める時間をもつこともなく、たいていのことが色あせて忘却の彼方に追いやられてしまう。そんな自分がなんだか淋しい。

惰性のように日々を過ごすのではなく、能動的に今この瞬間を生きたい。それは、人間ならば当然の欲求だ。それなのに、嘘偽りなく言えば、私は生きることに情熱を注げている実感がない。

そんな折、たまたま眼にしたフランシスコ教皇の言葉と自分自身が重なって見えた。

「個人、コミュニティ、あるいは社会全体が、表面的には高度に発達していても、 内面的には貧しく未熟で、リアルな生命や活力に欠けている。 人々はあらゆることにうんざりしていて、夢を見たり、笑ったり、遊んだりすることもない。 好奇心もなければ驚きもしない。まるでゾンビのようだ。 他者と共に生きることを祝福できないために心臓も止まってしまっている。」

−フランシスコ教皇

仕事・家事・育児とそれを取り巻く諸々に疲弊しながら、わずかばかりの時間を体力回復に費やす毎日。そのくせ何か重いものを背負ったままのような状態で朝を迎え、心と体に鞭を打ってやっとの思いで起き上がる。これじゃまるで本当にゾンビみたいだ。

この世に生を受けたその日から、休むことなく私の心臓は脈を打ち続けているし、肺から新鮮な酸素を供給された血潮は、薄い皮膚の下を縦横無尽に駆け巡り、ただ生きようとして、私を生かしてくれているというのに。

この日記を書きながら、中村一義の「キャノンボール」のフレーズが繰り返し頭の中に流れている。

「僕は死ぬように生きていたくはない。」

人はみな、いつか死ぬ。幸か不幸か最期の時までは、みな生き続けなければならない。どうせ生きるなら、私は死ぬように生きていたくはない。ゾンビではなく生気にあふれた人間として。疲れ果ててすり減っている場合ではない。

生命を噛み締めて、味わって、反芻するのだ。甘さも苦さも酸っぱさも全部。余すことなく。

だから、私は今日から日記を書くことにした。

 

 

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