自分自身を思い出すということ

■自分自身を思い出したい人、いらっしゃい。

このブログを訪れた多くの人が、
いちばん最初に目にするであろうサブタイトル。

“自分自身を思い出したい人、いらっしゃい。”

これは、オーラソーマ・カラーケアシステムの
創始者ヴィッキー・ウォール女史による言葉。

“For those who wish to remember themselves…come and see.”

ヴィッキーさんの後を継いで
現在も活躍されている
マイク・ブース学長から
はじめてこの言葉を聞いた時、

私の内側のどこかに
転がっていた小さな鈴が
打ち震えたような
そんな気がした。

その時、マイク学長は
何十年も前にヴィッキーさんの
“re-member(思い出す)”
という言葉に出会って
感じたこと、解釈したこと
を話していて。

その話を聴きながら、
私は私で、彼の解釈とはまた違う
私の深奥から喚起されたものに
心を奪われていた。

話を聞いていなかった
というわけではなくて。

むしろ、
全身全霊で、
全感覚器官を
総動員して、
聴いていた。

だからこそ。

あらゆることが
同時に起こっている。

そのひとつひとつに
気づいていた。

意識的になろうという
努力なんて必要なく
自分が自然に
開いている感覚。

マイク学長のコースでは
多くの受講者が
よく体験すること。

見えるもの。
聞こえるもの。
それがすべてではない。

姿なきものを見つめて
声なきものの声に
耳を澄ます。

静けさの中にある
騒々しさに
びっくりしたことって
ある?

在るもの。
立ち昇るもの。
呼び覚まされるもの。

見えないから
聞こえないから
わからないから

存在しない。

なんて思ったら大間違いだ。

そう思い込むように
仕向けられたのかもしれないし

それとも、自分から
蓋をしただけ
なのかもしれない。

どちらでもいいし、
それ以外でもいい。

ただ、あるものを
ないことには
できないだけだ。

誰かがこぼした
一滴の涙があったとして、

どんなに上手に
嗚咽を噛み殺しても

どんなに上手に
笑顔を作ってみても

いずれ蒸発して
消えてしまったとしても

そのひとしずくの
涙にのせられた
誰かの想いが
存在しなかったこと
にはならない。

 

その涙をなかったことには
決してしない。

他の人が忘れても
もしかして涙を流した本人すら
忘れてしまったとしても
私がかわりに覚えている。

私が思い出した私は、
そういう人だった。

 


■みんな、ひとりで、みんな、つながっている。

同じ言葉を耳にしても、
受ける印象や感想は、
十人十色。

異なる家族、環境、土地柄で育ち、
受けた教育、出会った人々も、
性格も、感受性も、特性も
得手不得手も、趣味・特技も
ひとりひとりまったくちがう
私たち。

だから、万人にとって
たったひとつの正解
なんてあるはずもなく。

ただ、おそらくは
普遍的な真実
というものは
確かにあって、

それは、とても寛容に
私たちひとりひとりによる
数多の解釈をやさしく
受け入れている。

私たちが手を伸ばせば、
そこにやさしく
つなぎ返してくれる
おおきな手が
あるかのように。

いろんな人が
いろんな方向から、
思い思いに
手を伸ばしている。

そして、みんな
つながっている。

それぞれの手から
ひとつのものに。

誰かにつながる
手だけが本物で
その他がすべて偽物
なわけじゃない。

それくらい
おおきなものに
ふれている。

本当はずっと
ふれ続けてきた。

ただそれを忘れて、
ふれられなくなったように
感じていた。

ひとりぼっち、
断ち切られて、
孤独だと思い込んでいた。

その間にも、
まわりにあったもの。

見えないところで
つながっていたもの。

みんな、ひとりで、
みんな、つながっている。

 

オーラソーマに限らず、
日常の瑣末なことを通じて、
私はそういうことに
気づいていく。

忘れてもいいよ。

私が代わりに
覚えておくからね。

 

■仲直り、しよう。

話は戻って、
マイク学長が
話していたその時に

私が “re-member” から
感じていたのは、
“もう一度、仲間になる”
という概念だった。

結果を出して
褒められること
評価されることが
いちばん大事。

嫌われたり
批難されたりしないように
わずかな間違いさえも
自分に許さない。

しんどいけれど
そうしていないと
自分の存在価値なんて
どこにもないと
思い込んでいた。

自分を責めることが
日常的な癖になっていて、
自分を好きになることが
ものすごく困難に感じていた
当時の私にとって、

自分自身を思い出すことは、

“もう一度、私自身と仲直りして、
私が私のいちばんの味方になる”

そんなふうに感じられたのだ。

自由。

生きる上で、
私にとってものすごく
重要なもの。

オーラソーマという
カラーケアシステムに
出会って15年くらい。

学び続けているのは、
ひとえに、この自由さが
あるからなのだと思う。

マイク学長が
“思い出すことの可能性”について
話していたことが印象深くて、
今でも心に残っている。

英語の member には
日本語でもよく使われる
「メンバー、構成員」
という意味のほかに
「手足など四肢の一部」
という意味がある。

だから、re-member には、
“もう一度バラバラになった部分を集めてひとつにする。”
という意味もあるんだよ、と。

なんだか、ハンプティ・ダンプティみたい。

大きなショックで
砕け散って粉々になった
私自身の大切な一部を
拾い集めて、もう一度ひとつにする。

そうやって、
忘れていた何かを
思い出して、

慣れ親しんできた
保守的な自分を
手放していく。

受精卵だった
私の最初の細胞に
ダウンロードされていた
純粋な意図のようなもの。

父や母や、
祖父母や、曽祖父母や
その先のご先祖さまたちから
脈々と受け継がれ
大切に縒り紡がれてきた
1本の糸のようなもの。

それを手繰り寄せる。

そんなことを、
このブログを通して
実現できますように
という願いをこめて

改めて

“自分自身を思い出したい人、いらっしゃい”

All is calm, All is bright

あけました。
おめでとうございます。

生まれた季節ということも
あるのかもしれないけれど
一年のうちでいっとう好きな
この季節。

すべてが静かで、
清らかで、
安らかで、
まぶしくて、
澄んでいて。

自分の内側にある
死んでいた部分が
新しく蘇っていく感じ。

昨年の後半に、
ちゃぶ台をひっくり返してから、
何本か記事を書いてみた。

けれど、公開はしなかった。

しっくり。
が、大事なんだ。

しっくり。
はナマモノだから、足が早い。

 

言いたいことや
伝えたいことが
たくさんある時には
言葉を伝える口だとか、
文章を書く(打つ)手指が
全然追いつかない。

考えてること、
感じてることが
高速すぎて、
一瞬前の私と
一瞬後の私では
どこかの何かがほんの少し
もう変わってしまっている。

その移ろいの中で
パッと発光するものに、
強烈に心を奪われて
「あっ!」と息を飲むのだけれど、

次の瞬間にはもう
消えていってしまうから、
それが何だったのか
すぐに忘れてしまう。

そうなったら最後、
追いかけることも
追いつくことも
できはしない。

一瞬の燦きの切れ端を
どうにかこうにか
言葉に残そうとするくらいしか、
スロウな私にはできないのだ。

でも、その言葉の中に
すくいとられた残像は、
燦きを思い出すための
アンカー(錨)になる。

記憶の底に沈んだ光を
意識の上に浮上させて、
まざまざと思い起こすことができる
魔法の呪文になりえるのだ。

言葉が、
私を導く灯台になり、
私を守護するお守りにもなる。

 

金色の魚のような
一瞬の燦きを
よく見たい、忘れたくない、
と思うのなら、

その瞬間、
過ぎ去っていく
そのしっぽを、
ぎゅっとつかむしかない。

たくさんを
つかまえる必要はない。

大切なものなんて、
少ししかないのだから、

ここぞ、という一瞬に。
これぞ、という燦きに。

手を伸ばすことを
躊躇しないように。

 

2018年 mano a mano は、
ほうき星のしっぽをつかまえる
実験のような場に
なるかもしれない。

この文体ですら、
2017年の投稿とは
かなり異なる試みなので、
戸惑う方もいるかもしれず。

でも、たぶん、
いちばん戸惑っているのは
他の誰でもないこの私だ。

 

自分自身を思い出す。

逆説的だけど、
それは同時に
自分を忘れ、
自分をなくしていく道なのだと思う。

戸惑いすらも
なだめつつ、
しっくり。
にとことんこだわる所存。

どうしても心が揺れる時、
折れそうな時には、
この年初の静謐な心持ちを
思い出せますように。