夏至と夕焼けと運命の人

ご無沙汰ちゃんです。unicoです。仕事的なアレですっかりやられて……っていうか悲しいほどに仕事しかしてない(苦笑)ワタクシですが、元気です!

2月から取り組んできた大仕事がようやく収束しようとする中、7月から始まる新しい取り組みもしっかりと射程内に入ってきました。

やってくるものと去りゆくもの。
その狭間で、いろいろなものが一新する。

そんな浄化の雨と風だったのかなー、なんて思いながら、アラスカンエッセンスSolstice Sun(夏至の太陽)のエッセンスを飲んだ嵐の夏至でした。

そして、そんな嵐の後の夕空がまた格別でねー。

薄紫の世界の中、ただ息を吸うだけで体が溶けて大気に同化してしまいそうになるような、そんな体験をしながらたっぷりカラーブリージングしました。

ちなみに、カラーブリージングとは、ある色をイメージして呼吸と共にその色を心身に取り入れる瞑想的な呼吸法のことです。

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そういえば、まだ私が夫とつきあう前のこと。

その日私は、ひとり日帰りで関西出張に行っていて、帰りの新幹線の中でそれはもう凄まじいほどの美しい夕焼けを目にしたんですよ。

もうね、1年に1度あるかないかくらいの荘厳な美しさで。車窓に流れる景色が完璧な絵のようでした。

その完璧な田園風景の中で、私に見られているなんてつゆほども思っていない野良着姿のばあちゃんが畦道を歩いていく姿や、トラクターに乗ったじいちゃんが1日の終わりの最後のもうひと頑張りをしている姿に、なんだか無性に感動して、新幹線の座席でひとりボロボロ涙を流して泣いてしまいました。

ただ普通に生きて、日々の勤めを果たして、帰りたい場所へ帰る。
そこに愛が待つゆえに、体と心と魂を持ち帰る。

それって100万の美辞麗句を並べて述べる感謝の祈りよりも雄弁な、なんて神聖な行為なんだろう!っていう想いがどわーっ!と溢れて

こんな美しい世界に参加させてもらえてよかった!
生まれてきてよかった!
神様ありがとう!

って、感極まりながらふと車内を見回すと、出張帰りのビジネスピープルが首をほぼ直角に曲げてうなだれるように疲弊しきって熟睡してるじゃありませんかー!

なんなんだ、このパラレルワールドはーーー?‼︎

って驚愕しました。。。

その足で帰社して、同僚たちにお土産を配りながら素晴らし過ぎる夕焼けの話を熱く報告していたら、なんと! みんな忙し過ぎて「夕焼けなんて気づかなかった」と言うではありませんか!

ただひとりを除いては。

その、ただひとりが、後に私の夫となる人だった、という。

今日の夕焼けを見て、なぜだかあの日の夕焼けが思い出され、美しいと感じるものが共通する人と一緒にいられてただただ素直にうれしいな♪  と改めて思いました。

・・・ノロケか!

(と一応、自分でツッコんでおく・・・)

article no. 019

スマホ版ブログに突如広告表示の謎

私はブログ更新も閲覧もPC派です。というか、今どきスマホを持たないフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)派なんです、実は。

通話はガラケーの方が使い安いし、メールやアプリはiPod Touchで事足りる。今のガラケーが壊れたら、さすがにiPhoneに変えようかな、と思ってはいるところですが、まだまだ私のガラケーちゃん、元気に頑張ってくれています。

と、ここまでガラケーで引っ張っておいてなんですが、今日のテーマはガラケーへの熱き愛ではなく、このブログのスマホ版に突然広告が入っていることに気がついた!というところから始まります。

無料ブログなら広告が表示されてしまうのは理解できるのですが、サーバーを借りて独自ドメインで作成しているのに、前は広告なんて表示されなかったのに、一体なんでなの〜?! と思って、Google先生に泣きついてみたら、すんなりと悪さをしていた犯人が判明しました。

実際のところ悪さなんかじゃなくて、私が最近導入した無料アクセス解析ツールのせいだったってだけなんですけどね(苦笑)

もともとWordPressにアクセス解析のプラグインを入れていたワタクシ。思うように詳細情報まで取得できないし、他にもいろいろ入れていたプラグインの処理が悪さをして深夜帯には90%の確率で更新ボタンのクリック後にエラーになるという、更新時のストレスが半端ない状態だったのです。

そこで、プラグインを整理して、アクセス解析については、むかーし昔、自作ホームページに設置していた忍者ツールズを入れてみよう!と思い立ち、実際導入してみたら、進化したninjaの素晴らしいこと! 心から拍手喝采を送っていました。

しかーし!

いつも見ていたPC版では広告が目立たないので気がついていなかったんですが、スマホ版には誤クリックして「むきぃ〜っ!(怒)」となる使いづらいったらありゃしない位置にバッチリ目立つ広告が居座っていたとは…orz

もし、広告表示の影響で、最近、読みにくさを感じていたよー、という方がいらしたら申し訳ありませんでした!mm

Google先生ご紹介の方によるオススメのアクセス解析研究所というツールに変更したら無事に広告非表示になりました。これにて一件落着。

もし、WordPressを使っていて同じような現象に悩まされている方がいらしたら、お役に立てることもあるかもしれないと思うので、記事に残しておくことにします。

article no. 018

言葉を「最初の武器」にしない方法

先週末、映画『メッセージ』を観に行ったことをお伝えしましたが、毎日、この映画を通しての気づきから繋がる思考を巡らせています。

映画自体は考えさせようという意図がある「考える」映画なんかではなく「感じる」映画、思考ではなく、自分の中に生まれいづる「気づき」をジャッジすることなく丸ごと受容することを促す映画だと(個人的に)感じています。

ただ、私の中に湧き上がった「気づき」が、深海の海底で生まれた小さな泡が大きくなって海面へと浮上してゆくように私を別の場所へ導いてくれるので、たゆたうようにその探求を楽しんでいます。

泡沫 写真

映画の主人公は言語学者で、彼女の著作の中に書かれた一文があるシーンで引用されます。

その一文、まるっとは暗記していないんですが、

「言葉は理解し合うための手段であり、最初の武器にもなる」

みたいなことが書かれていて、後半の「最初の武器にもなる」の部分に、すごくドキッとしました。

実は、この映画をひとりで観に行ったのは、夫と諍いをしていて家にいたくなかったから。だったんですよ!(ぶっちゃけたった!)

私は、喧嘩すると、感情を言葉にして相手にぶつけるのではなく、完全に黙り込んでしまうタイプです。

単純に、口もききたくない、という幼稚な感情の表現で、人間としての成熟からいちばん遠い場所にいるな、と自分でも思っていました。

でも、先述の「最初の武器にもなる」という一文に、はっ!となりまして。

言葉を武器にしないための沈黙という概念が浮かび上がってきたのです。

私は、小さい頃から自分でも厄介なほど、言葉にこだわりをもっています。

だからこそ、言葉に関わることや伝えることを生業として生きてきたのだと思うし、頑固なまでの強いこだわりこそが、一方で、愛着をもって大切にしている証だとも思っています。

これまでの人生経験の中で大袈裟でなく言葉にいのちを救われた私なので、いのちを救う特効薬になる言葉の素晴らしさをよくよく知っています。

その一方で、いのちを諦めたくなるくらい、言葉によって傷ついた感覚を身をもって経験した者として、言葉のもつおそるべき殺傷力も痛いほど認識しています。

だから、先述の一文によって「黙り込む」という行為は、意図的というよりはおそらく本能的な反応として、大切な言葉を「武器」にしない、ということを選択しているのかもしれない、と思ったんです。

聖書には「はじめに言葉ありき」とありますが、意思や意図が、音霊・言霊に乗って物質界に発せられたものが、私たちが普段使っている言葉であり、それが世界を形作っています。

参考記事:世界はことばでできている

物質界に発せられた言葉の威力とは、それこそ現実化力に他ならないのですが、それはもう、本当に絶大なものです。

だからこそ、よい言葉を使うことが大切だと、昔から多くの人が語り継いできたわけですが、その力が絶大だからこそ、何を発言するか(=どの意思・意図に現実化力を持たせるか)はよくよく注意深く選ばなければなりません。

そういう意味で、物質化したくない意図(というようりはただの感情、でも感情こそが超パワフルなの!)を言霊・音霊に乗せて物質界に放たない、ということも、とても大事なこの世界のヒミツだな、と改めて思った次第であります。

今日も、美しい言葉で美しい世界を創っていきましょう♪

article no. 017

明日から生き方が変わる(かもしれない)映画『メッセージ』

映画『メッセージ』を観てきました。

映画『メッセージ』オフィシャルサイトより

ものすごーく大雑把にいうと“地球外生命体とのコンタクトのお話”(端折り過ぎw)でした。

賛否両論あるでしょうが『インターステラー』とか『ツリー・オブ・ライフ』とかが好きな人(私か!)にはオススメです。

『ツリー・オブ・ライフ』に出てきたサンクスギビング・スクエア教会のステンドグラス, This photo of Thanks-Giving Square is courtesy of TripAdvisor

ただキレイな画なんじゃなくて、言葉にすると陳腐過ぎるんだけど、親になって初めてわかる愛しいわが子への際限のない慈しみの気持ちが滲み出して滴り落ちているかのようなキラキラした映像の連続に胸がきゅーっとなりました。

ジャンルはSFだけどどちらかというとファンタジー寄り(オチがね)で、言語学者が主人公という点も言語好きな私としては楽しめたポイントです。

私は日本の高校を卒業後イギリスの大学に進学したのですが、それまでの「言わずもがな」とか「沈黙の美学」的な“慮る”要素の強い言語環境(=日本)から「わからないのがデフォルト」「分かり合えない前提を踏まえて、それでも理解したいと手を伸ばし合う」異文化/異言語空間(=イギリス)に身を置いたことで、コミュニケーションの基本姿勢というものを深く学びました。

違いを見つけて批判・攻撃するためでなく、違いを認めて理解・協力するために言葉やコミュニケーションはあるんだよね、たとえそれが宇宙人相手であってもね。

他にも、サピア=ウォーフ仮説とか、パズルのピースの話とか、筒井康隆的なアレ(ネタバレ!)とか、私的に怒涛の気づきの連続だったのですが、この映画の視聴後感想を一言にまとめるとするならば「一瞬一瞬、感じていることや思ったことを、素直に伝える人生を生きよう」と反省と自戒と神妙さを込めて思ったのです。

これってひとりではできないこと。必ず相手がいなければ。隠れコミュ障さんにとっては、間違いなく大きなチャレンジです。

そんな想いで明日から過ごしていこうと思うので、明日から人生変わっちゃうかもしれません!!!

article no. 016

名前にまつわるエトセトラ vol.3 〜結婚して名前が変わるということ〜

小さい頃から自分の名前が嫌いだった私。
嫌いと感じていたいちばんの理由は読み間違えられることが多く、正しい名前を呼んでもらえなかったことですが、母から聞いた自分の名前の由来や、名前に使われている漢字の由来を知って、ますます自分の名前嫌いが深まっていきました。

 💡 まだ読んでいない方は、こちらからどうぞ♪
 ↓ ↓ ↓
➡ 名前にまつわるエトセトラ vol.1 〜聖杯伝説への誘い〜

➡ 名前にまつわるエトセトラ vol.2 〜自分の名前が嫌いでした〜

このシリーズを書いていてふと思い出したことがあったので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

学生時代に、母が「◯◯(私の旧姓=母にとっては結婚後の姓)という苗字が嫌い」と言ったのを聞いて、とても悲しい気持ちになったことがありました。

母が「嫌い」という言葉を使ったのは「漢字の字面のバランスを取るのが難しく、上手に書けないから」というような話から始まり「電話帳に1件しかないような珍しい名前なのが嫌だ」というような流れの中で、だったと記憶しています。

母の旧姓は小学校低学年で習う平易な漢字で構成されていて、左右対称の文字(たとえば田中とか山田みたいな)だったので、年賀状などでもとても書きやすかったそうなのです。

娘の私に言わせれば、父も母もとてもきれいな字を書く人たちだったのですが、母は自分の書く字が好きじゃないという理由で記名の際によく父に代筆してもらっていました。

父の苗字が「嫌い」といっても、別に父のことが嫌いと言ったわけでもないし、父方の祖父母のことが嫌いと言ったわけでもなかったのですが、なぜだか、父に連なる一族全体(もちろんその末端に私もいる)が、否定されているような感覚を覚えました。

それは、決して致命的な刺し傷のような傷ではなく、とても小さな、だけど切れ味がよすぎて血すら出ないような、サイズに見合わぬ痛みを伴う切り傷のような、そんな傷を負ったような感覚でした。

小さい頃から自分の名前を嫌っていた私なのに、母が名前(苗字)を「嫌い」だと言ったのを聞いたら傷つくように感じるなんて、自分のことを棚にあげていてなんだかズルいんですけどね(苦笑)

現代ではビジネスネームとして旧姓を使用する女性もたくさんいますが、日本では戸籍上の夫婦別姓が認められていないため、婿取りをしない女性は、婚姻によって強制的に相手の苗字を名乗ることになるわけです。

男性にはなかなか伝わらないかもしれませんが、これってものすごく大きな変化なんですよ!

そして、この大変化を喜ばしく感じる場合はよいのですが、疎ましく感じる場合も一方では確実にあるわけで。

私の母だけでなく、新婚ほやほやだった中学時代の理科の先生が「自分の苗字が変わらなければいけないことに憤慨している」とアイデンティティ・クライシス的なことを話していたことが思い出されたりもします。

ただ幸運なことに、結婚当初から、私は、結婚した夫の苗字がとても気に入っています。

夫の苗字がたまたま宗教に関係がある用語でもあるせいか、自分の名前を書くときにはいつも写経するような気持ちで書いているし、名前を名乗る際にもマントラを唱えるような気持ちで声に乗せています。意識するのではなく、とても自然にほぼ自動的にそうなるのです。

いわゆる「うしろの人」(守護霊とかご先祖様とか)が視える人から、私が名前を書いている時に、「うしろの人がスッと立ち上がった」と言われたことがあるんですが、そういうことがあっても、不思議じゃないという気がしちゃうくらい夫の苗字に連なるものに守られている感覚があると言っていいと思います。

たかが名前、されど名前。なんですよね。

article no. 015