街色図鑑 vol.3 〜極彩色ゆめかわスイーツ

TVCMを見て「あれ食べたーい!」と息子が憧れていた虹色の綿菓子。

家族の休日で横浜中華街に行った際に見かけたので、念願叶って食べることができました(息子が)。

私は甘いものがあまり得意ではないので、いただかなかったのですが、息子が食べきれないうちに溶けてしまったその綿あめの残骸には目を奪われました!

なぜなら…

こんなにも鮮やかで美しかったから!

冷静に考えると食べものの色じゃない!んですけどねー。(苦笑)

そういえば、虹色が大好きな息子は、私のおなかの中にいた頃のことや、おなかに入る前のことを記憶している子どもなのですが、彼が虹色好きな理由が伺える話をしてくれたことがあります。

彼が私を選んだのは、空の上でどのお母さんにしようかなーといろんな女の人たちを見ていたら、みんなそれぞれ緑とか青とかきれいな色(オーラ的なもの?)に光り輝いていたらしいのです。

その中にひとりだけ虹色に光ってる人がいたから、その女の人の子どもになることにしたのだとか。その虹色の女の人が、つまりワ・タ・シ❤️なんでしたー!

オーラソーマでは人間は「HUE-MAN(色の人)」と言われますが、まさにその通りの姿が、肉体としての目をもつ以前の息子には見えていたようです。長年オーラソーマのボトルを体に塗り続けていたおかげ?!かもしれませんね。

それだけなら、すごく運命的で素敵ないい話なんですが、実は、彼の話には続きがありまして。

もうひとりピカピカ光ってる女の人がいたから、その人とママとどっちにしようかなーって思って「どちらにしようかな、かみさまのいうとおり」で決めた…んだそうですよ! マジかっ!!!(笑)

でも「神様の言う通りママを選んでいちばんよかった」そうなので、最終的にいい話に着地するようです!!! 私もヨカッタ!!!(笑)

彼のこの話、実はオーラソーマのサトルアナトミー(微細エネルギーの解剖学)とも一致していて、大変興味深いのです。長くなるので、それはまたの機会にお伝えしますね。

article no. 024

街色図鑑 vol.2 〜思いのほかやさしい

この夏、2度目のかき氷を食べました。
これを食べるためならば、
日々の暑さも最高の演出かもしれませんねー。

*生いちごミルク
*アルフォンソマンゴー
*メロンミルク

天然の果肉で作られたフルーツソースは
思いのほかやさしい色合いで。
それでいて、味わいはくっきりとしていて。

氷という不思議なものと組み合わさると
それはそれはゆたかでしあわせなごちそうに化けて、
でも急がないと、それは逃げていくようで。

しあわせやよろこびもこんな感じ。

永遠に続くといいなと思うけど、
いつも一瞬のきらめきのように消えていく。

ただ、その閃光や火花を、
何度も人生の中に見つける目や
永遠的長さの一瞬として感じる時間を超越した感覚や
長く大切に心に留めておく記憶を
もち続けることはできるのだと思います。

article no. 023

街色図鑑 vol.1 〜 キュンとして旬

銀座伊東屋のディスプレイに
胸がキュンとなりました。

個人的に好きな色味。

そして旬を先取る
涼しげな折紙の朝顔たち。

竹尾という紙屋さんの
展示会の宣伝でもあり、

よーく見ると
紙と色の名前が
書いてあります。

*玉しき
色:きっか あさぎ

*マーメイド
色:空

*クロマティコ A-FS
色:スカイブルー

*ハンマートーン GA
色:藤

見てるだけで
すごーくシアワセ〜❤️
な気分になります。

 

article no. 022

色と私

オーラソーマ(Aura-Soma)という、色と光を使って心と体と精神と魂という人間のひとつなぎ、まるっと全部をケアするシステムがありまして。かれこれ10年以上、そのシステムを学び続けているワタクシです。

思い返すとオーラソーマに興味を持ったのは13年くらい前のことですが、実は、もっと小さい頃から「色」に関心がある子供時代を過ごしてきました。

小学校に上がる前から母の化粧水が入った瓶に色鉛筆の芯の部分だけを細かく細かく削った粉を混ぜて色水を作って並べては悦に入ってました。

小学生の頃は、ビーズ手芸。スワロフスキーのような高価なものではないけれど、玉虫色に光る加工がされた小さなビーズが光を受けてキラキラ輝くのを見て長時間うっとりしてました。サンキャッチャーも大好きだったな。

中学・高校の頃は、芸術全般が好きで自習時間に学校を抜け出しては学校近くの美術館や銀座有楽町界隈の映画館にひとりで通ってました。

この時期の私は鑑賞なんてなまやさしい見方じゃなくて、制作者が精魂込めた本物の芸術作品が放つ凄まじい生命エネルギーのうねりに全身を晒して、息を止めてその圧に吹き飛ばされないように対峙するというような、なかなか鬼気迫る感じで大真面目に芸術作品と取っ組み合いをしていました。


大好きなセルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』より

もの言わぬ、けれど饒舌過ぎるほど饒舌な作品たちから、抜き差しならない真剣勝負でどれだけ多くのことを教わったか、と思うと、今でもクラクラ目眩がするほどです。なまぬるいものに飽き足らない当時の私にはそれが快感だったし、感受性豊かな年代にこういう体験に没入できたことが、私の宝物であり基盤をなしているんだな、と思います。

その後に進学した大学や専門学校では、映画に関する論文を書いていました。ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』やクシシュトフ・キシェロフスキの『トリコロール3部作』などを題材に。

当時は気づいていませんでしたが、「人間の感情と色彩」というテーマが、この2作品には共通していたんですよね。

 

色と感情って、割とよく取り上げられるテーマだと思います。

それこそ、オーラソーマにかかわらず、古今東西のカラーセラピー的なもので、赤はエネルギッシュ、黄色は快活、といったように、色と心理状態が結びつけられているものってとてもよく目にします。

でも、私にとっての色と感情って、A=Bみたいに教科書で知識として学習して覚えたものじゃなくて、もっと痛々しく生々しい感覚的なものでした。

中高生の頃の私は、心身症という簡単にいうとストレス性の反応が体に出てしまうという症状を患っていました。

心身症と一括りにいってもその症状は様々で、私の場合は、自分の中にある、そこにあってほしくない感情(嫌悪感とか罪悪感とか嫉妬とか不全感とか)を自分の中にとどめておきたくなくて、代わりに胃の中のものを吐き出してしまうという神経性嘔吐の形で表れました。

私が中学生の頃から文章を書いて書いて書きまくって原稿料をもらっていたことについてお話すると「すごいですね」って言っていただけることがあるのですが、そんなの全然すごくなくて。

そうやってネガティブなものを排泄し続けていないと、その黒い塊に自分が内側から食いつぶされてしまう、という危機感みたいなものをリアルに感じていたからこその衝動だったんです。

そういう意味で、呼吸しないと死んじゃうのと同じレベルで書かないと死んじゃう!という状態で、生きるために書いていたので、もし書かずに嘔吐してるだけだったら、自殺してたか発狂してただろうなー、と思います。

って、なんか、話が重くなってきたので(苦笑)ちょっと軌道を修正しますね。

実は、その時の吐き出したい感情が、なぜか私には「色」で認識されていたんです。

NLP的なタイプが関係あるのかはわかりませんが、感情を匂いで感じたり、図形や音や温度で感じるという人の話を聞いたことがあります。私の場合は感情とか感情にまつわる背景を思うとき「色」が見えていました。

最初は「◯◯ちゃんに嫌いって言われちゃった…嫌だな」って思う程度だったたものが、「◯◯ちゃん、ニガテ」になって、悲しさ、悔しさ、怒り、それでもどこかで好きな気持ち、とかが複雑に混ざりあって、水彩絵の具の筆洗いバケツの水の色みたいになっちゃって。

◯◯ちゃんと会話しようとすると吐き気を催す(言葉にするとなんて酷い!苦笑)という症状が最初に表れて、次に◯◯ちゃんのことを考えるだけで吐き気、最後は、◯◯ちゃんと関係なく「イヤ」という感情=バケツの水の色を思い出すだけで吐き気、というところまで行き着いてしまい、授業中にバッと席を立ってトイレで吐く、という……。

そうこうするうちに、吐かないために食べないようになり、摂食障害への道を辿ってゆくわけですが、母が握ってくれたおむすびというソウルフードに、心と体と精神と魂のまるっとぜんぶ、の「いのち」を救われて、今、私はこうして生きているわけです。そのお話はまたいずれ。

そんなこんなで、知識として知る前から、いやいや、もっと前のものごころつく前から既に虜になっていた「色」の世界。そんな私の目に映る色の世界を、気ままにシェアしてゆこうかな、なんて思います。

いやー、前置き長かったー。(笑)

あまりに長くなりすぎたので肝心なイロモノ(?)記事は次回に!

article no. 021

キリエ!

息子の運動会練習日でいつもより早く家を出たので、朝活がてらいつものコーヒーショップへGO!

そんな朝の店内に流れていたBGMは昔懐かしMr.ミスターの「キリエ」でした。

「キリエ(Kyrie)」って「主よ」っていう神への呼びかけのギリシャ語なんです。

そこで「神さまー!おはようございます!」と心の中で呼びかけながら席に着いて、モーニングページにいそしみました。

モーニングページというのは、毎朝、心に浮かんだことを徒然なるまま、ただひたすらノートに書き出すというもの。

思考と感情の整理法みたいなものなんだけど、まったくもってロジカルじゃなく、思いっきりクリエイティブな手法で、ライティング・セラピーの基本の「キ」なんですよ!

ご興味のある方はジュリア・キャメロンの著書『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』をぜひご一読くださいまし♪

思えば、私は小学生の頃から誰に教わるでもなく、モーニングにこだわらないノートライティングをしてきていました。

それはひとえに、口で上手く想いを伝えることができなかったから。

“隠れコミュ障ちゃん”だったからこそ、心に浮かんでは消えて忘れられていくさまざまな想いを言葉を使って結晶化する、というような試みをしていたんだな、と今更ながら思います。

だから、もし、

自分自身を思い出したい。
自分自身を愛せるようになりたい。

という気持ちで、この記事を読んでくださっている方がいらしたら、心の中にあるいろいろをお気に入りのノートに書き出してみることを強くお勧めします。

どんな感情であっても善悪のジャッジを加えずに、ただひたすらに書いて書いて書きまくって、自分が選んだ言葉でその感情に命を吹き込んであげてください。

そうしたらその言葉と感情たちが、きっと、あなたを支えてくれる。

私なんて今日も朝から自分のノートを読み返して、私の文章が表現している脆くて儚くて純粋で孤独で、でもものすごくキラキラしてるいつかの私の気持ちを思い出して、胸がじーーーん❤️ ってなっちゃいました!

って自画自賛がすぎるでしょうか(笑)。

でもね、そんなかわいい自分を好きにならずにいられるわけがないんですー。

そりゃあね、職業的編集者の視点から見たら、拙いどころの騒ぎじゃない、下手すりゃ「てにをは」も危うい未推敲の肥大したエゴの垂れ流しですよ。

って、今度は辛口が過ぎないか…?>自分(苦笑)

でも、誰かに見せて褒めてもらうために書くわけじゃないからいいんです。

他人の評価を気にするあまり、いちばん大切な自分自身を脇に追いやってしまう癖に気がついて、まずそれを止めようと意識することが、自分自身を思い出すための第一歩ですから。

その時、感じたこと、考えたことが、自分の中でもう一度みずみずしく鮮やかに喚起されたなら、書きなぐっただけのノートでも、それでもう完璧なんです。

あらゆる感情がそうやって命を与えられたことで報われて、何かとてつもなく豊かでかけがえのない宝物に進化を遂げる、錬金術のようなプロセスになるのだと、私は思います。

で、話は「キリエ」に戻ります。

キリスト教会でよく唱えられるお祈りでは「キリエ」という呼びかけの後に続きがありまして。

「キリエ、エレイソン」
(主よ、憐れみたまえ)

と祈るんです。

目の不自由な者がイエスさまに「主よ、憐れみたまえ」と言うと、イエスさまは「何をしてほしいのか?」と尋ねられました。

目の不自由な者は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答え、イエスさまが深く憐れんで、その者の目に触れたら、めしいたその目が開いて見えるようになった、という聖書の説話があるのです。

私も、今朝たまたま入ったコーヒーショップで「キリエ」を耳にしたことで「目を開けなさい」って言われたような気がしました。

世界はまばゆい光に溢れた
とても美しいところだよ。
よく目を開けて見てごらん。

って。

そんなメッセージとして、大切に受け取ります。

キリエ!

article no. 020