豊かさの教え 〜ニライカナイ編〜

自分の内側にある目に見えない富についての気づきをシェアしたついでに、以前、豊かさに関するワークをした時の体験を思い出しました。自分にとっての備忘録的な意味も込めて書き残しておこうと思います。

フラワーエッセンスを使って22日間で自分に必要な豊かさを実現するプログラムがあります。その名もアバンダンス・プログラム


Nature World

販売元のウェブサイトには以下のような説明がされています。

アバンダンスプログラムには、2本のエッセンスと1本のオイル、そして自己発見と自己成長の為の22日間のエクササイズが含まれています。このプログラムは、自分の意図を明確にし、必要のない信念、態度、行動などを脱ぎ捨てて、自分自身の「豊かさ=アバンダンス」の目標を、楽しみながら、たやすく実現することを助けます。

このプログラムに取り組んでワークもそろそろ終盤という時期に「豊かさとは?」という問いに対する私の中から出てきた回答が、とてもシンプルかつ印象的だったので、未だに忘れられずにいます。

※以下に書くのは瞑想していた時に浮かんだ情景と会話です。

そこは、サンゴ礁の浅瀬が続く白い砂浜でした。

八重山諸島の竹富島のコンドイ浜のような場所といったら、イメージが伝わりやすいかもしれません。


やいまねっと

その砂浜には私の他に、アンガマのウシュマイのお面のような顔をした神様がいて、私に「豊かさ」についてこんな話を聞かせてくれたんです。

*****

unico:オジイ、どうしたら充分豊かでお金の不安のない生活ができるようになる?

神様:そんなのカンタンさー。豊かさは目の前に無尽蔵にある、と思えばいいさー。地球上の全員が手にしても減らないくらいたくさんあるからよー。

unico:本当?! 無尽蔵どころか、私の持ってる現実の豊かさときたら、悲しいくらい微々たるものなのよー。

神様:こんなにたくさんあるでしょー?!

unico:あると思いたいけど…

神様:よーく聞きなさい。これから大切なことを教えるよー。豊かさは、uniちゃんの目の前にあるよー。uniちゃんは今、何が見える?

unico:海でしょ、空でしょ、オジイでしょ。

神様:そーでしょー。豊かさというのは「海」と思いなさい。

神様:みんなお金お金ってお金ばっかり欲しがるけど、お金は豊かさの本体じゃないよー。お金はねー、あれさ、塩みたいなものさー。豊かさから取り出したほんの一部分なわけさー。

unico:お金はお塩?!

神様:そーさー。海水を汲んでさー、天日で干したり、鍋で火にかけたりするでしょー。すると水分が蒸発して塩を取り出せるわけ。塩が欲しいからって海の水をたくさんすくっても海の水は減らないさー。それくらいカンタンに、子どもでも知ってる方法で、豊かさからお金は取り出せるよー。

unico:子どもでも知ってる方法…それって具体的にはどうすればいいってこと?

神様:それはニライカナイ(海の彼方にある豊穣の源の神様の世界)からの宿題さー。しっかり考えなさーい!


おきなわ物語 

*****

…というわけで、会話の口調はかなり脚色してます(笑)が、ここに書いた内容はすべてそのワークで教えてもらった内容です。

結局、答えは自分で考えなさいということなので、うーん、と考えた結果、私的には「愛と感謝」かな?と思いました。

豊かさは減らない。だから気前よく分かち合う。そうしたら、自ずと感謝が生まれるから、それを交換&交歓し合う。

「これ好き。ありがとう。」「うれしい。ありがとう」って伝え合う。これなら小さい子でもよく知ってる!

ただ、この解を導き出した当時の私は、思うような富を手に入れることはできませんでした。それが何故なのか、今ならわかります。それは、本当の意味で感謝をしていなかったから。

1年くらい前までの私は、受け取ることがとても苦手で、何かをいただいたり、好意的な行為をしてもらったりしても、「ありがたい」と思う一方で「申し訳ない」と思ってしまっていたんです。

「申し訳ない」と思っている時点で、それは本当には感謝していないのだということに気づいてしまって、この1年は、本当の意味で受け取ること、感謝すること、をみっちり練習してきました。

 ➡ 関連リンク1:最愛の人からの贈りものまで拒んでいたことに気づいた愛の贈りもの

 ➡ 関連リンク2:受け取る猛特訓をして真の感謝に開眼した受容と供給

それは、受け取っていいという許可を自分に出すことでもあり、自分には受け取る価値があるということを承認する地道な作業でもありました。

だからこそニライカナイのオジイの言葉の意味が以前よりもわかってきた気がするし、塩だけじゃなく、海全体が見える目を持てるようになってきたかなー、と思う今日この頃。

ちょうどアンガマの時期(お盆)を迎えようとしていることもあり、思い出したことにも何か意味があるのかもしれません。

 

article no. 027

豊かさの秘密とありあまる富

昨日のPC原稿消滅事故から受け取ったギフトが、実はまだあります。

消えた原稿について、惜しい気持ちがまったくなかったかというとそれは嘘です。そりゃあね、多少はね。いや、だいぶ?(笑)

でも、すぐに次のような力強い声が自分の内側から聞こえてきました。

原稿は消滅しても何度でもまた書ける。
私の中に「核」があるから、言葉はいくらでも溢れてくる。
こんこんと湧き出づる尽きせぬ泉のように。

これってスゴくないですかー?!

失われたものは、実は失われていないんです。

もしこれが、大金や金塊やなんかだったら悲惨だったけれど…なんていう思いが一瞬よぎりましたが、またすぐに新たな考えがやってきました。

もし大金だったっとして、なくなったまったく同じそのナンバーが印刷された紙幣は返ってこないかもしれないけれど、それを手にした私という人間は、何も損なわれることなく存在している。それなら、もう一度同じだけの大金を生み出すことは、普通に考えて可能なはず。


The Angels of Abundance

これは、原稿でもお金でも同じことだと思います。失われたものは実は失われていないし、盗もうと思っても奪えない。私が生きている限り、私の内部の核で創造の火花がパチパチしている限り、消そうと思っても消すことなんてできない。

そう考えると、目に見える所有物がなくなる心配をするのって、実はとんでもなくアホらしいことなのかもしれません。それどころか「目に見えない価値を生み出す能力に限界がある」という呪いを自分で自分にかけていることになっていたりして?! オソロシイ〜!

そういえば、林檎ちゃんも

価値は 生命に従って付いている
ほらね君には富が溢れている

って歌ってましたね。

豊かさの秘密が少しだけ開示されたような気がするので、私自身のありあまる富を素直に認めることにします!

article no. 026

世界は満点の星空のように美しい

書き溜めていた複数の原稿がごっそり消えてしまいました。

スリープ中にPCの電池が切れていたらしく、充電後再起動してもファイルが復活しなかったという初歩的かつ痛恨のミス。リサーチだけでも数日を費やして書いたものだったのに…(T_T)

しかし。

この事故から、大きなギフトを受け取りました。

ちょうど昨日、消滅してしまった原稿にカバラ(ユダヤ教神秘主義)に関して次のようなことを書いていたんです。

「カバラは知識として学んだり理解したりするものではなく、受け取った教えを実践して生きてゆくもの」


wikipediaより

そして今朝、読んでいた本の中で個人的にヒットした箇所にも

「ただ伝授されただけの知識は地中深くに埋まった貴金属のようなもの。それを使わないのは馬鹿げたこと。」

というようなことが書かれていました。

この「ヒットする感覚」=「潜在意識が発する小さな声」なので、耳を澄ますチャンス到来とばかりに、原稿が消えたことの意味について自分自身と対話してみました。

すると、原稿が消えたのは、リサーチし尽くした知識を再編集して再構築するレポートではなく、咀嚼した自分の言葉で語れ、という自分からの愛あるダメ出しなのだという応答がやってきました。

緻密で正確な裏付で固められた鎧や兜を脱ぎ捨てなさい。
血の通った体温を感じる生身の言葉を発しなさい。
その言葉は既に私の中にあるから。

この内なる声が響いたことによって、頭の中に閃光が走り、私の身に起きている出来事が数珠つなぎにつながる感覚がありました。

まるで、スティーブ・ジョブズ氏のスタンフォード大卒業祝辞の有名な言葉「Connecting the dots.(「点をつなげる」)」のように。

「うわー、ジョブさん、リアルConnecting the dots.だよーーー!!!」
と興奮して鼻血が出そう(笑)。

興味深いことに「事故」と「自己」は同じ発音なんですよね。

自分で起こしている。
自分で創造している。

気づくために。
目覚めるために。

ひとつひとつ離れて無関係に見えていた点と点の記憶や体験が、閃光のような光のラインでつながったら、unico座とでも呼ぶべき唯一無二の星座のようになりました。

誰もが神聖幾何学のように不思議な秘密をたたえて美しく瞬く自分だけの星座を持っているとしたら…。世界は満点の星空のように美しい。思わず笑みがこぼれます。

article no. 025

街色図鑑 vol.2 〜思いのほかやさしい

この夏、2度目のかき氷を食べました。
これを食べるためならば、
日々の暑さも最高の演出かもしれませんねー。

*生いちごミルク
*アルフォンソマンゴー
*メロンミルク

天然の果肉で作られたフルーツソースは
思いのほかやさしい色合いで。
それでいて、味わいはくっきりとしていて。

氷という不思議なものと組み合わさると
それはそれはゆたかでしあわせなごちそうに化けて、
でも急がないと、それは逃げていくようで。

しあわせやよろこびもこんな感じ。

永遠に続くといいなと思うけど、
いつも一瞬のきらめきのように消えていく。

ただ、その閃光や火花を、
何度も人生の中に見つける目や
永遠的長さの一瞬として感じる時間を超越した感覚や
長く大切に心に留めておく記憶を
もち続けることはできるのだと思います。

article no. 023

色と私

オーラソーマ(Aura-Soma)という、色と光を使って心と体と精神と魂という人間のひとつなぎ、まるっと全部をケアするシステムがありまして。かれこれ10年以上、そのシステムを学び続けているワタクシです。

思い返すとオーラソーマに興味を持ったのは13年くらい前のことですが、実は、もっと小さい頃から「色」に関心がある子供時代を過ごしてきました。

小学校に上がる前から母の化粧水が入った瓶に色鉛筆の芯の部分だけを細かく細かく削った粉を混ぜて色水を作って並べては悦に入ってました。

小学生の頃は、ビーズ手芸。スワロフスキーのような高価なものではないけれど、玉虫色に光る加工がされた小さなビーズが光を受けてキラキラ輝くのを見て長時間うっとりしてました。サンキャッチャーも大好きだったな。

中学・高校の頃は、芸術全般が好きで自習時間に学校を抜け出しては学校近くの美術館や銀座有楽町界隈の映画館にひとりで通ってました。

この時期の私は鑑賞なんてなまやさしい見方じゃなくて、制作者が精魂込めた本物の芸術作品が放つ凄まじい生命エネルギーのうねりに全身を晒して、息を止めてその圧に吹き飛ばされないように対峙するというような、なかなか鬼気迫る感じで大真面目に芸術作品と取っ組み合いをしていました。


大好きなセルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』より

もの言わぬ、けれど饒舌過ぎるほど饒舌な作品たちから、抜き差しならない真剣勝負でどれだけ多くのことを教わったか、と思うと、今でもクラクラ目眩がするほどです。なまぬるいものに飽き足らない当時の私にはそれが快感だったし、感受性豊かな年代にこういう体験に没入できたことが、私の宝物であり基盤をなしているんだな、と思います。

その後に進学した大学や専門学校では、映画に関する論文を書いていました。ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』やクシシュトフ・キシェロフスキの『トリコロール3部作』などを題材に。

当時は気づいていませんでしたが、「人間の感情と色彩」というテーマが、この2作品には共通していたんですよね。

 

色と感情って、割とよく取り上げられるテーマだと思います。

それこそ、オーラソーマにかかわらず、古今東西のカラーセラピー的なもので、赤はエネルギッシュ、黄色は快活、といったように、色と心理状態が結びつけられているものってとてもよく目にします。

でも、私にとっての色と感情って、A=Bみたいに教科書で知識として学習して覚えたものじゃなくて、もっと痛々しく生々しい感覚的なものでした。

中高生の頃の私は、心身症という簡単にいうとストレス性の反応が体に出てしまうという症状を患っていました。

心身症と一括りにいってもその症状は様々で、私の場合は、自分の中にある、そこにあってほしくない感情(嫌悪感とか罪悪感とか嫉妬とか不全感とか)を自分の中にとどめておきたくなくて、代わりに胃の中のものを吐き出してしまうという神経性嘔吐の形で表れました。

私が中学生の頃から文章を書いて書いて書きまくって原稿料をもらっていたことについてお話すると「すごいですね」って言っていただけることがあるのですが、そんなの全然すごくなくて。

そうやってネガティブなものを排泄し続けていないと、その黒い塊に自分が内側から食いつぶされてしまう、という危機感みたいなものをリアルに感じていたからこその衝動だったんです。

そういう意味で、呼吸しないと死んじゃうのと同じレベルで書かないと死んじゃう!という状態で、生きるために書いていたので、もし書かずに嘔吐してるだけだったら、自殺してたか発狂してただろうなー、と思います。

って、なんか、話が重くなってきたので(苦笑)ちょっと軌道を修正しますね。

実は、その時の吐き出したい感情が、なぜか私には「色」で認識されていたんです。

NLP的なタイプが関係あるのかはわかりませんが、感情を匂いで感じたり、図形や音や温度で感じるという人の話を聞いたことがあります。私の場合は感情とか感情にまつわる背景を思うとき「色」が見えていました。

最初は「◯◯ちゃんに嫌いって言われちゃった…嫌だな」って思う程度だったたものが、「◯◯ちゃん、ニガテ」になって、悲しさ、悔しさ、怒り、それでもどこかで好きな気持ち、とかが複雑に混ざりあって、水彩絵の具の筆洗いバケツの水の色みたいになっちゃって。

◯◯ちゃんと会話しようとすると吐き気を催す(言葉にするとなんて酷い!苦笑)という症状が最初に表れて、次に◯◯ちゃんのことを考えるだけで吐き気、最後は、◯◯ちゃんと関係なく「イヤ」という感情=バケツの水の色を思い出すだけで吐き気、というところまで行き着いてしまい、授業中にバッと席を立ってトイレで吐く、という……。

そうこうするうちに、吐かないために食べないようになり、摂食障害への道を辿ってゆくわけですが、母が握ってくれたおむすびというソウルフードに、心と体と精神と魂のまるっとぜんぶ、の「いのち」を救われて、今、私はこうして生きているわけです。そのお話はまたいずれ。

そんなこんなで、知識として知る前から、いやいや、もっと前のものごころつく前から既に虜になっていた「色」の世界。そんな私の目に映る色の世界を、気ままにシェアしてゆこうかな、なんて思います。

いやー、前置き長かったー。(笑)

あまりに長くなりすぎたので肝心なイロモノ(?)記事は次回に!

article no. 021