街色図鑑 vol.3 〜極彩色ゆめかわスイーツ

TVCMを見て「あれ食べたーい!」と息子が憧れていた虹色の綿菓子。

家族の休日で横浜中華街に行った際に見かけたので、念願叶って食べることができました(息子が)。

私は甘いものがあまり得意ではないので、いただかなかったのですが、息子が食べきれないうちに溶けてしまったその綿あめの残骸には目を奪われました!

なぜなら…

こんなにも鮮やかで美しかったから!

冷静に考えると食べものの色じゃない!んですけどねー。(苦笑)

そういえば、虹色が大好きな息子は、私のおなかの中にいた頃のことや、おなかに入る前のことを記憶している子どもなのですが、彼が虹色好きな理由が伺える話をしてくれたことがあります。

彼が私を選んだのは、空の上でどのお母さんにしようかなーといろんな女の人たちを見ていたら、みんなそれぞれ緑とか青とかきれいな色(オーラ的なもの?)に光り輝いていたらしいのです。

その中にひとりだけ虹色に光ってる人がいたから、その女の人の子どもになることにしたのだとか。その虹色の女の人が、つまりワ・タ・シ❤️なんでしたー!

オーラソーマでは人間は「HUE-MAN(色の人)」と言われますが、まさにその通りの姿が、肉体としての目をもつ以前の息子には見えていたようです。長年オーラソーマのボトルを体に塗り続けていたおかげ?!かもしれませんね。

それだけなら、すごく運命的で素敵ないい話なんですが、実は、彼の話には続きがありまして。

もうひとりピカピカ光ってる女の人がいたから、その人とママとどっちにしようかなーって思って「どちらにしようかな、かみさまのいうとおり」で決めた…んだそうですよ! マジかっ!!!(笑)

でも「神様の言う通りママを選んでいちばんよかった」そうなので、最終的にいい話に着地するようです!!! 私もヨカッタ!!!(笑)

彼のこの話、実はオーラソーマのサトルアナトミー(微細エネルギーの解剖学)とも一致していて、大変興味深いのです。長くなるので、それはまたの機会にお伝えしますね。

article no. 024

色と私

オーラソーマ(Aura-Soma)という、色と光を使って心と体と精神と魂という人間のひとつなぎ、まるっと全部をケアするシステムがありまして。かれこれ10年以上、そのシステムを学び続けているワタクシです。

思い返すとオーラソーマに興味を持ったのは13年くらい前のことですが、実は、もっと小さい頃から「色」に関心がある子供時代を過ごしてきました。

小学校に上がる前から母の化粧水が入った瓶に色鉛筆の芯の部分だけを細かく細かく削った粉を混ぜて色水を作って並べては悦に入ってました。

小学生の頃は、ビーズ手芸。スワロフスキーのような高価なものではないけれど、玉虫色に光る加工がされた小さなビーズが光を受けてキラキラ輝くのを見て長時間うっとりしてました。サンキャッチャーも大好きだったな。

中学・高校の頃は、芸術全般が好きで自習時間に学校を抜け出しては学校近くの美術館や銀座有楽町界隈の映画館にひとりで通ってました。

この時期の私は鑑賞なんてなまやさしい見方じゃなくて、制作者が精魂込めた本物の芸術作品が放つ凄まじい生命エネルギーのうねりに全身を晒して、息を止めてその圧に吹き飛ばされないように対峙するというような、なかなか鬼気迫る感じで大真面目に芸術作品と取っ組み合いをしていました。


大好きなセルゲイ・パラジャーノフの『ざくろの色』より

もの言わぬ、けれど饒舌過ぎるほど饒舌な作品たちから、抜き差しならない真剣勝負でどれだけ多くのことを教わったか、と思うと、今でもクラクラ目眩がするほどです。なまぬるいものに飽き足らない当時の私にはそれが快感だったし、感受性豊かな年代にこういう体験に没入できたことが、私の宝物であり基盤をなしているんだな、と思います。

その後に進学した大学や専門学校では、映画に関する論文を書いていました。ピーター・グリーナウェイの『コックと泥棒、その妻と愛人』やクシシュトフ・キシェロフスキの『トリコロール3部作』などを題材に。

当時は気づいていませんでしたが、「人間の感情と色彩」というテーマが、この2作品には共通していたんですよね。

 

色と感情って、割とよく取り上げられるテーマだと思います。

それこそ、オーラソーマにかかわらず、古今東西のカラーセラピー的なもので、赤はエネルギッシュ、黄色は快活、といったように、色と心理状態が結びつけられているものってとてもよく目にします。

でも、私にとっての色と感情って、A=Bみたいに教科書で知識として学習して覚えたものじゃなくて、もっと痛々しく生々しい感覚的なものでした。

中高生の頃の私は、心身症という簡単にいうとストレス性の反応が体に出てしまうという症状を患っていました。

心身症と一括りにいってもその症状は様々で、私の場合は、自分の中にある、そこにあってほしくない感情(嫌悪感とか罪悪感とか嫉妬とか不全感とか)を自分の中にとどめておきたくなくて、代わりに胃の中のものを吐き出してしまうという神経性嘔吐の形で表れました。

私が中学生の頃から文章を書いて書いて書きまくって原稿料をもらっていたことについてお話すると「すごいですね」って言っていただけることがあるのですが、そんなの全然すごくなくて。

そうやってネガティブなものを排泄し続けていないと、その黒い塊に自分が内側から食いつぶされてしまう、という危機感みたいなものをリアルに感じていたからこその衝動だったんです。

そういう意味で、呼吸しないと死んじゃうのと同じレベルで書かないと死んじゃう!という状態で、生きるために書いていたので、もし書かずに嘔吐してるだけだったら、自殺してたか発狂してただろうなー、と思います。

って、なんか、話が重くなってきたので(苦笑)ちょっと軌道を修正しますね。

実は、その時の吐き出したい感情が、なぜか私には「色」で認識されていたんです。

NLP的なタイプが関係あるのかはわかりませんが、感情を匂いで感じたり、図形や音や温度で感じるという人の話を聞いたことがあります。私の場合は感情とか感情にまつわる背景を思うとき「色」が見えていました。

最初は「◯◯ちゃんに嫌いって言われちゃった…嫌だな」って思う程度だったたものが、「◯◯ちゃん、ニガテ」になって、悲しさ、悔しさ、怒り、それでもどこかで好きな気持ち、とかが複雑に混ざりあって、水彩絵の具の筆洗いバケツの水の色みたいになっちゃって。

◯◯ちゃんと会話しようとすると吐き気を催す(言葉にするとなんて酷い!苦笑)という症状が最初に表れて、次に◯◯ちゃんのことを考えるだけで吐き気、最後は、◯◯ちゃんと関係なく「イヤ」という感情=バケツの水の色を思い出すだけで吐き気、というところまで行き着いてしまい、授業中にバッと席を立ってトイレで吐く、という……。

そうこうするうちに、吐かないために食べないようになり、摂食障害への道を辿ってゆくわけですが、母が握ってくれたおむすびというソウルフードに、心と体と精神と魂のまるっとぜんぶ、の「いのち」を救われて、今、私はこうして生きているわけです。そのお話はまたいずれ。

そんなこんなで、知識として知る前から、いやいや、もっと前のものごころつく前から既に虜になっていた「色」の世界。そんな私の目に映る色の世界を、気ままにシェアしてゆこうかな、なんて思います。

いやー、前置き長かったー。(笑)

あまりに長くなりすぎたので肝心なイロモノ(?)記事は次回に!

article no. 021

名前にまつわるエトセトラ vol.3 〜結婚して名前が変わるということ〜

小さい頃から自分の名前が嫌いだった私。
嫌いと感じていたいちばんの理由は読み間違えられることが多く、正しい名前を呼んでもらえなかったことですが、母から聞いた自分の名前の由来や、名前に使われている漢字の由来を知って、ますます自分の名前嫌いが深まっていきました。

 💡 まだ読んでいない方は、こちらからどうぞ♪
 ↓ ↓ ↓
➡ 名前にまつわるエトセトラ vol.1 〜聖杯伝説への誘い〜

➡ 名前にまつわるエトセトラ vol.2 〜自分の名前が嫌いでした〜

このシリーズを書いていてふと思い出したことがあったので、忘れないうちに書き留めておこうと思います。

学生時代に、母が「◯◯(私の旧姓=母にとっては結婚後の姓)という苗字が嫌い」と言ったのを聞いて、とても悲しい気持ちになったことがありました。

母が「嫌い」という言葉を使ったのは「漢字の字面のバランスを取るのが難しく、上手に書けないから」というような話から始まり「電話帳に1件しかないような珍しい名前なのが嫌だ」というような流れの中で、だったと記憶しています。

母の旧姓は小学校低学年で習う平易な漢字で構成されていて、左右対称の文字(たとえば田中とか山田みたいな)だったので、年賀状などでもとても書きやすかったそうなのです。

娘の私に言わせれば、父も母もとてもきれいな字を書く人たちだったのですが、母は自分の書く字が好きじゃないという理由で記名の際によく父に代筆してもらっていました。

父の苗字が「嫌い」といっても、別に父のことが嫌いと言ったわけでもないし、父方の祖父母のことが嫌いと言ったわけでもなかったのですが、なぜだか、父に連なる一族全体(もちろんその末端に私もいる)が、否定されているような感覚を覚えました。

それは、決して致命的な刺し傷のような傷ではなく、とても小さな、だけど切れ味がよすぎて血すら出ないような、サイズに見合わぬ痛みを伴う切り傷のような、そんな傷を負ったような感覚でした。

小さい頃から自分の名前を嫌っていた私なのに、母が名前(苗字)を「嫌い」だと言ったのを聞いたら傷つくように感じるなんて、自分のことを棚にあげていてなんだかズルいんですけどね(苦笑)

現代ではビジネスネームとして旧姓を使用する女性もたくさんいますが、日本では戸籍上の夫婦別姓が認められていないため、婿取りをしない女性は、婚姻によって強制的に相手の苗字を名乗ることになるわけです。

男性にはなかなか伝わらないかもしれませんが、これってものすごく大きな変化なんですよ!

そして、この大変化を喜ばしく感じる場合はよいのですが、疎ましく感じる場合も一方では確実にあるわけで。

私の母だけでなく、新婚ほやほやだった中学時代の理科の先生が「自分の苗字が変わらなければいけないことに憤慨している」とアイデンティティ・クライシス的なことを話していたことが思い出されたりもします。

ただ幸運なことに、結婚当初から、私は、結婚した夫の苗字がとても気に入っています。

夫の苗字がたまたま宗教に関係がある用語でもあるせいか、自分の名前を書くときにはいつも写経するような気持ちで書いているし、名前を名乗る際にもマントラを唱えるような気持ちで声に乗せています。意識するのではなく、とても自然にほぼ自動的にそうなるのです。

いわゆる「うしろの人」(守護霊とかご先祖様とか)が視える人から、私が名前を書いている時に、「うしろの人がスッと立ち上がった」と言われたことがあるんですが、そういうことがあっても、不思議じゃないという気がしちゃうくらい夫の苗字に連なるものに守られている感覚があると言っていいと思います。

たかが名前、されど名前。なんですよね。

article no. 015

【お客様の声】私の状況をズバリ言い当ててました!

毎月月替わりで、ワタクシ unico セレクトのオラクルカードデッキから今のあなたにとって必要なメッセージが unico 直筆のポストカードでご自宅のポストに届く!という今どき稀有な超アナログ(笑)サービス「ことのひとひら(言の一片)」(旧サービス名「月替わり☆オラクルカードメッセージ」)のご感想をいただきました。

post 写真


メッセージカードを頂きました!

心に余裕がなくて、ポストを確認するのも億劫だったのですが、昨日ようやくポストを開けました(^^;)

第一印象は「暖かい絵」 

明るく落ち着いた黄色がいっぱいに広がっていてちょっと心が落ち着きました(^^)

しかし、じっくり読んでみて驚いたのはメッセージの内容!

私の状況をズバリ言い当ててました!

なぜ自分に心の余裕がなかったのか、よく分かっていなかったのですが、メッセージを読んで初めて把握しました(^^;)

自分の代わりに、漠然と感じていたことを言語化してもらった、という感じでしょうか。

現状とゴール、そして今立ち向かっている障害。
この3つを見つめ直すことができました。
ありがとうございました!

K.S.さま・30代・男性


実は、K.S.さまには私が描いた絵で作ったポストカードでメッセージをお届けしたんです。メッセージはもちろんのこと、絵にもぬくもりを感じていただけたようでとてもうれしいです♪

ケツァル ポストカード

メッセージの内容がズバリ!だったとのことですが、オラクルカードってね、本当にそうなんですよ!!!

私自身はK.S.さまの状況はもちろんまったく知りえないわけですが、私の内側にいるスゴイ人(笑)は、すべて知ってるんです。

不思議なように思われるかもしれませんが、すべての生きとし生けるものが、魂の根っこのところではつながっている、と考えると実はとっても当たり前のこと、だとも思います。

oneness 写真

自分の心に余裕がなくなると、どうしても自分で自分のことが見えにくくなりますよね。そんなときこそ、ことのひとひらをぜひご利用ください!

お送りしたメッセージの意味がよくわからない 😥 場合には、安心のメールフォローもありますよ!

➡ 価格表

1ヶ月(1回お届け) 1000円(葉書代、郵便切手代込み)
6ヶ月(6回お届け) 5000円(葉書代、郵便切手代込み)
1年(12回お届け) 8000円(葉書代、郵便切手代込み)

ことのひとひらのご購入はこちら


➡ 毎月先着10名様限定、無料モニター募集中!
メールマガジン読者様限定!
毎月先着10名様に無料でお申し込みを承ります。
1ヶ月につき1人1回までお申し込みいただけます。

♥お申し込みいただくための条件:下記のいずれか
・「お客様の声」として感想をホームページに掲載させてくださる
・  SNSで感想を投稿してくださる

【先着無料枠】ことのひとひらのご購入はこちら

💡 メールマガジンの読者登録がまだの方はこちらからどうぞ♪

※メールマガジン未登録状態でお申し込みいただいた場合は、MANO A MANO にて配信登録を行います。ご了承ください。

article no. 010

名前にまつわるエトセトラ vol.2 〜自分の名前が嫌いでした〜

自分の名前が嫌いでした。
記憶を辿ってみると、おそらく4〜5歳くらいから、ずっと。

いちばんの理由は、正しく読んで(呼んで)もらえないから。

weeping girl 写真

私の本名は「美紀」と書いて「みのり」と読むのですが、見事に100人中100人が「みき」と読み間違えます。

今でこそ、女の子の名前としてよく見かけるようになりましたが、私が子どもだった頃は俳優の寺田農か声優の松島みのりくらいしか知ってる「みのり」はいませんでした。当時好きだった立原えりかの童話にも男の子の名前として登場していたので、子ども心に「なんかかわいくない…」と感じていたんです。

苗字(旧姓)の方もこれまた電話帳に1軒(実家)しか掲載されていない程度の珍しさで、こちらもまあよく読み間違えられ、正しく読めるのは100人中3人くらいだったでしょうか。

そんなこんなで、幼少の頃から自己紹介や出席確認時には常に名前の読み間違いを訂正し続ける人生が幕を開けたのです。

教室 写真

小学生の頃、両親に自分の名前の由来を聞いて作文を書くという国語の宿題が出され、両親が新婚旅行で訪れた紀伊地方が自分の名前の由来だということを知りました。

当時の新婚旅行の定番が熱海や南紀白浜だったというような知識もない子どもだったので、「ハワイとか沖縄じゃないなんてダサい」とか「紀伊国屋はノリノクニヤじゃないのに、なんでミキじゃなくてミノリなの?なんて思ったりして、とにかく、やっぱり好意的に受け取ることができませんでした。

高校生の頃、世界各地の神話や伝説が好きで読み漁っていた中で古代中国について独学で文献調査をしていた時、白川静の『字統』という超絶面白い本に出会いました。

そこで「美」という漢字が「大きい羊」を表す会意文字であるということ、そして、神への生贄の立派さを讃える意味があるということを知り、ギリシャ神話でゼウスに捧げられた黄金羊だったり旧約聖書でエホバの神に捧げられた供物だったりというイメージと直結してしまい、「美しくなるようになんて願っても大抵名前負けするし、親が大事な子どもに付けたら、イサク(アブラハムの息子)の燔祭みたいなことになりそうで不吉」だと思い、ますます自分の名前嫌いが深まっていきました。

アブラハム 写真
Abraham Sacrificing Isaac by Laurent de LA HIRE

そして、名前にまつわるエトセトラ vol.1 〜聖杯伝説への誘い〜にも書いたように大学時代に留学先で自己紹介する時に、「ミノリは収穫(実り)という意味です」という、本来の名前の由来とは異なる伝わりやすい説明をするようになっていったというわけです。

今になって考えてみると、よくぞここまで自分の名前を嫌い続けて自己否定の思考の上塗りをしていたものだ! 😆 とある意味感心してしまうほど(苦笑)。

良くも悪くも思考は現実化するので、20年近く自分の名前に否定的なエネルギーを注ぎ続けた結果、この後、名前にまつわる負の現実化を見事やってのけ、ある事件が勃発するのですがそれはまた次回へとつづきます。

article no. 009