キリエ!

息子の運動会練習日でいつもより早く家を出たので、朝活がてらいつものコーヒーショップへGO!

そんな朝の店内に流れていたBGMは昔懐かしMr.ミスターの「キリエ」でした。

「キリエ(Kyrie)」って「主よ」っていう神への呼びかけのギリシャ語なんです。

そこで「神さまー!おはようございます!」と心の中で呼びかけながら席に着いて、モーニングページにいそしみました。

モーニングページというのは、毎朝、心に浮かんだことを徒然なるまま、ただひたすらノートに書き出すというもの。

思考と感情の整理法みたいなものなんだけど、まったくもってロジカルじゃなく、思いっきりクリエイティブな手法で、ライティング・セラピーの基本の「キ」なんですよ!

ご興味のある方はジュリア・キャメロンの著書『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』をぜひご一読くださいまし♪

思えば、私は小学生の頃から誰に教わるでもなく、モーニングにこだわらないノートライティングをしてきていました。

それはひとえに、口で上手く想いを伝えることができなかったから。

“隠れコミュ障ちゃん”だったからこそ、心に浮かんでは消えて忘れられていくさまざまな想いを言葉を使って結晶化する、というような試みをしていたんだな、と今更ながら思います。

だから、もし、

自分自身を思い出したい。
自分自身を愛せるようになりたい。

という気持ちで、この記事を読んでくださっている方がいらしたら、心の中にあるいろいろをお気に入りのノートに書き出してみることを強くお勧めします。

どんな感情であっても善悪のジャッジを加えずに、ただひたすらに書いて書いて書きまくって、自分が選んだ言葉でその感情に命を吹き込んであげてください。

そうしたらその言葉と感情たちが、きっと、あなたを支えてくれる。

私なんて今日も朝から自分のノートを読み返して、私の文章が表現している脆くて儚くて純粋で孤独で、でもものすごくキラキラしてるいつかの私の気持ちを思い出して、胸がじーーーん❤️ ってなっちゃいました!

って自画自賛がすぎるでしょうか(笑)。

でもね、そんなかわいい自分を好きにならずにいられるわけがないんですー。

そりゃあね、職業的編集者の視点から見たら、拙いどころの騒ぎじゃない、下手すりゃ「てにをは」も危うい未推敲の肥大したエゴの垂れ流しですよ。

って、今度は辛口が過ぎないか…?>自分(苦笑)

でも、誰かに見せて褒めてもらうために書くわけじゃないからいいんです。

他人の評価を気にするあまり、いちばん大切な自分自身を脇に追いやってしまう癖に気がついて、まずそれを止めようと意識することが、自分自身を思い出すための第一歩ですから。

その時、感じたこと、考えたことが、自分の中でもう一度みずみずしく鮮やかに喚起されたなら、書きなぐっただけのノートでも、それでもう完璧なんです。

あらゆる感情がそうやって命を与えられたことで報われて、何かとてつもなく豊かでかけがえのない宝物に進化を遂げる、錬金術のようなプロセスになるのだと、私は思います。

で、話は「キリエ」に戻ります。

キリスト教会でよく唱えられるお祈りでは「キリエ」という呼びかけの後に続きがありまして。

「キリエ、エレイソン」
(主よ、憐れみたまえ)

と祈るんです。

目の不自由な者がイエスさまに「主よ、憐れみたまえ」と言うと、イエスさまは「何をしてほしいのか?」と尋ねられました。

目の不自由な者は「主よ、目を開けていただきたいのです」と答え、イエスさまが深く憐れんで、その者の目に触れたら、めしいたその目が開いて見えるようになった、という聖書の説話があるのです。

私も、今朝たまたま入ったコーヒーショップで「キリエ」を耳にしたことで「目を開けなさい」って言われたような気がしました。

世界はまばゆい光に溢れた
とても美しいところだよ。
よく目を開けて見てごらん。

って。

そんなメッセージとして、大切に受け取ります。

キリエ!

article no. 020

言葉を「最初の武器」にしない方法

先週末、映画『メッセージ』を観に行ったことをお伝えしましたが、毎日、この映画を通しての気づきから繋がる思考を巡らせています。

映画自体は考えさせようという意図がある「考える」映画なんかではなく「感じる」映画、思考ではなく、自分の中に生まれいづる「気づき」をジャッジすることなく丸ごと受容することを促す映画だと(個人的に)感じています。

ただ、私の中に湧き上がった「気づき」が、深海の海底で生まれた小さな泡が大きくなって海面へと浮上してゆくように私を別の場所へ導いてくれるので、たゆたうようにその探求を楽しんでいます。

泡沫 写真

映画の主人公は言語学者で、彼女の著作の中に書かれた一文があるシーンで引用されます。

その一文、まるっとは暗記していないんですが、

「言葉は理解し合うための手段であり、最初の武器にもなる」

みたいなことが書かれていて、後半の「最初の武器にもなる」の部分に、すごくドキッとしました。

実は、この映画をひとりで観に行ったのは、夫と諍いをしていて家にいたくなかったから。だったんですよ!(ぶっちゃけたった!)

私は、喧嘩すると、感情を言葉にして相手にぶつけるのではなく、完全に黙り込んでしまうタイプです。

単純に、口もききたくない、という幼稚な感情の表現で、人間としての成熟からいちばん遠い場所にいるな、と自分でも思っていました。

でも、先述の「最初の武器にもなる」という一文に、はっ!となりまして。

言葉を武器にしないための沈黙という概念が浮かび上がってきたのです。

私は、小さい頃から自分でも厄介なほど、言葉にこだわりをもっています。

だからこそ、言葉に関わることや伝えることを生業として生きてきたのだと思うし、頑固なまでの強いこだわりこそが、一方で、愛着をもって大切にしている証だとも思っています。

これまでの人生経験の中で大袈裟でなく言葉にいのちを救われた私なので、いのちを救う特効薬になる言葉の素晴らしさをよくよく知っています。

その一方で、いのちを諦めたくなるくらい、言葉によって傷ついた感覚を身をもって経験した者として、言葉のもつおそるべき殺傷力も痛いほど認識しています。

だから、先述の一文によって「黙り込む」という行為は、意図的というよりはおそらく本能的な反応として、大切な言葉を「武器」にしない、ということを選択しているのかもしれない、と思ったんです。

聖書には「はじめに言葉ありき」とありますが、意思や意図が、音霊・言霊に乗って物質界に発せられたものが、私たちが普段使っている言葉であり、それが世界を形作っています。

参考記事:世界はことばでできている

物質界に発せられた言葉の威力とは、それこそ現実化力に他ならないのですが、それはもう、本当に絶大なものです。

だからこそ、よい言葉を使うことが大切だと、昔から多くの人が語り継いできたわけですが、その力が絶大だからこそ、何を発言するか(=どの意思・意図に現実化力を持たせるか)はよくよく注意深く選ばなければなりません。

そういう意味で、物質化したくない意図(というようりはただの感情、でも感情こそが超パワフルなの!)を言霊・音霊に乗せて物質界に放たない、ということも、とても大事なこの世界のヒミツだな、と改めて思った次第であります。

今日も、美しい言葉で美しい世界を創っていきましょう♪

article no. 017